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2020年7月21日火曜日

賛否の無いプロレスとオカダ・カズチカ

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先日、つらつらとツイートをしていた話を少しまとめようと思う。雑誌Numberでオカダ・カズチカがアントニオ猪木と対談をした中で出てきた、今の新日本には賛否の否が無い、という発言についてである。



【否が無いプロレス=ウォッシュされてしまった新日本】

正直な話、この発言を見た瞬間にゾッとした。オカダ自身が俯瞰的、そして客観的に新日本のリングを的確に捉えていると思ったからだ。おそらくこの発言は棚橋からは出てこない。何故なら、棚橋なら苦しかろうが、ポジティブな印象で語るだろうからだ。

この10年近い中、様々なエンターテイメントにおいて限りなく否が無いものがもてはやされてきた。人々が自由に自分の摂取したい物を選ぶことが出来て、なんならインターネット上で時間さえも自分の好きなように選択出来るようになったことは、どう受け取ってもらうかを考える上で、大きな変換を余儀なくされた。

否があるものはつまり離脱点を増やすことになったり、炎上の火種を生むことになる。これをリスクとして考えると、より無難な表現をせざるを得なくなる。個人的な表現として、これを”ウォッシュされた”と言っている。

この数年、新日本プロレスは尽くウォッシュされてきたと思っている。演出の華やかさ、会場の観賞マナー、興行のパッケージ、選手とのコミュニケーションの場まで、とにかく丁寧に、気安くコンテンツに触れてもらえて、離脱する機会を限りなく減らしてきた。それはエンターテイメントとしての質をブラッシュアップもしたのだが、良くも悪くもウォッシュしたとも感じている。

オカダが考えていたように、プロレスというのは実のところ、不透明決着であったり、バッドエンドによるカタルシスというのがあるのだが、現在の新日本はそういうものが排除されてきた。

興行で考えたら、遠方から来たお客さんは優れた試合を見に来てるわけだから、もやもやするような終わり方をしたら、もう1度足を運んでくれないのではないか、という杞憂みたいなものがあったのかもしれない。

ただでなくてもV字回復の真っ直中、優れた選手、優れたリング内……内容の良さで勝負してると豪語する中で、勝敗を濁すようなものが混ざるのは難しいと判断されてきたのは理解が出来る。

つまり、否が無いプロレスというのは意図的に作り出されてきたものだと思うのである。



【否が無いプロレス=オカダ・カズチカのプロレス】

とはいうものの、実際のところ、否が無い存在として考えると、誰でもないオカダ自身が否が無いプロレスラーではないだろうか。

フィジカル、戦績、試合での立ち振る舞い、あらゆるものが規格外であり、賛否として考えた時にあまりにも否が無い。

ただ否が無いが故につまらないのも、オカダのプロレスなのだ。

あらゆる要素込みで、格好良さの象徴ではあるし、強さの象徴である。しかし、試合の構築を考えた時に、終盤のレインメーカーが出たところでオカダの勝利が見えてくる。これはある意味、正しいプロレスではある。オールドスクールなフィニッシャーが出れば、試合が終わるという合図になる古き良きプロレスと言える。

そこに至るまでの展開を考えた時に、まずオカダのアスリート性、身体性の時点で、オカダを圧倒的に追い込めるような人間がどれだけいると言うか。

アスリート思考のレスラーであるケニー・オメガをもってしても3番勝負というルールを持ち出したことで、互いの持ち味を出せたと見れば、誰が敵うというのだろうか。

結局のところ、オカダが何をしようが否にならない。オカダの絶対的な存在だけが不気味に輝くことになってしまうわけで、オカダの言う賛否というのは、オカダがヒールターンでもしてくれないとオカダ自身には生まれないという話になる。

だが、オカダはそのチャンスを逃し続けている。IWGPを手放した後、風船を持って入場したり、コスチュームを変えたり、技を変えたり。まだ若いからこそ色々なことを試せる余裕があるとも言えるし、会社にとってのオカダの立ち位置を考えたら、やすやすとポジションが変えれるものではないとは思うが、大きくギアを変えれるタイミングで何も変えてはこなかったのだ。



【空気が変わった令和2年の新日】

しかし、新日本プロレスのリング内は今年の頭から少し様子が違うのだ。それまでの傾向から一転、バッドエンドを抑揚として使い始めている。KENTAによる内藤の襲撃を始め、この10年であまり見なかった光景がよくあるのだ。

最初は、これが上手くいくと思わなかったし、実際、暗黒期に戻ってしまう(新しいファンはグレーな展開を受け入れられないのではないか)という指摘も多く見られた。

瞬間的な衝撃に対するリアクションはネガティブなものも発生はするのだが、当初予想していたよりもそのインパクトは少ないように感じる。むしろ、次に何が起こるか分からない。襲撃された相手はどんなことをするのだろうと期待する声もある。

この10年という時を経て、見続けたファンが成熟したことで、より複雑なプロレスを提供してもちゃんと噛み砕けるようになったり、そこから立ち上がる選手という姿を信じれるようになったように思う。

例えばこれが格闘技だと、負けたら、その選手の寿命は終わったとか時代は変わったとか言われるところだが、プロレスはその次が存在しているということを理解してもらえた結果、よくないことが起きたとしても、その選手の終わりではないと受け入れてもらえてるのではないだろうか。

さて、直近で言えば、EVILがロスインゴを離脱。内藤からベルトを奪い、Bullet Clubに寝返るという否の行動を起こした。問題はこの次の話である。



【オカダを食うほどの否は作れるのか】

次回挑戦者が高橋ヒロムに決定しているが、EVILに求められるのは、少なからずともオカダ・カズチカを食えるかどうかではないか。

SANADAはその身体性とテクニック、閃きで、オカダ自身からライバルと評価される状況を作り上げた。それでも、まだオカダを追い込めているかといえば、イーブンにはなっていない。

絶対的な賛の象徴であるオカダを前にして、屈服させるほどの否、身体性、戦績、立ち振る舞い……あらゆるものをぐちゃぐちゃにして、オカダの顔を苦痛で歪めるほどの否が必要なのだ。

その瞬間、大きく新日本の力関係が変わっていくことになるのだが、今一度思い出して欲しい。オカダ・カズチカは新日本に否が無いことを知っている。つまり、彼はプロレスには賛否を呼ぶ複雑さが必要で、否が生まれた時の面白さを既に自覚している。賛の象徴である自分が否に触れた時に面白くなることを理解していると言える。

今までどんな相手であろうと、最後の瞬間、相手の腕を放さないオカダを見たら勝利を確信したファン達も、手段を選ばない否の象徴とぶつかったら、どうなるか分からない試合展開にハラハラして、オカダに頑張れと声援を送ることになる、ということをオカダ自身が理解しているのである。

非常にメタな視点だが、オカダ・カズチカとは"分かっている"チャンピオン、なのだ。

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